一連のいじめ自殺報道と、真の解決策

現在のマスコミは、何かクローズアップされる事件が起きると、事件の大小を問わず、関連する事件などを過剰に報道する。先般の「ネット心中」(インターネットで知り合った複数の人たちが一緒に自殺をすること)も過剰に報道された。このときも、自殺の手段が知れ渡ったことで「連鎖自殺」が起こるのでは、と専門家が指摘していた。

〜中略〜

 しかし、いじめられている当事者にとって、「死ぬな」、「生きていれば、いいことがあるよ」という言葉は、「いじめられている現状を我慢しろ」と同じ意味になるのではないだろうか。当事者には、第三者的で無責任な言葉に聞こえかねない。 そのため私は、「死ぬな」、「生きていればいいことがある」ではなく、「逃げろ」と言いたい。不登校でも転校でもよい。いじめなどの絶望的な現状から一度逃げ、現場から距離を置くことを提案したい。そのほうが、「死ぬな」よりも、生きる選択の幅を広げられるように思う。

このフリーライター 渋井氏の分析、対応へのアプローチに同感です。
連日報道番組や特番でこの問題について語る大人達は、子供は未熟で自分達でいじめを解決できないから自殺という極端な手段に走るのではないか、という仮定に囚われすぎていると感じています。私自身はいじめは悪だがそれは人間の本能に近い行動であり、戦争と同様真の根絶など夢物語だと思っています。(昨日のたけしの番組で、評論家 宮崎哲弥氏がやはり本能という言葉を使っていて共感しました。)
人間は本能を理性で大幅に抑制することができる、地球上で唯一といっていい動物です。個としての人間が極限まで理性で本能を抑制できたとしても、集団としての人間すべてにそれを求めることは不可能です。
いじめの理由はさまざまだとは思いますが、集団の中に異物が混じった、もしくは集団の中に居たものが変異し異物となった場合に発生することが多いように思います。こういった異物は集団内の他と必ずしも大きな違いを持っているわけではなく、非常に些細なもの(趣味嗜好といったものからその日の対人応対まで)から、出身地や国籍といった、本人にはいたし方のないものまであるのではないでしょうか。異物が入ったと認識した集団全体、またはその部分集合に、その異物を排除しようとする動きが出るのは必然です。その排除の方法は様々ですが、暴力に走る場合もあるでしょうし、周囲にばれないようチクチクといたぶる場合もあります。こういった手法はここでは問題ではなく、個が排除されようとする、または他を排除にかかる可能性は、「いじめはいけない」といった倫理観でどうにかなるものではないということです。
よって、我々大人が考えなければならないのは、相対的に未熟である子供達の社会において、いじめという名の排除の動きが発生したとき、排除される側に立った子供を如何に救うことができるのか、また排除しようとする子供達に対して、異物たる対象を排除したところでなにも良いことはないのだということを如何にわかってもらうか、ということではないでしょうか。
このような観点においては、渋井氏の「逃げろ」というメッセージは非常に有効だと思います。今の子供達は逃げる先がないと言われます。私もそれは感じており、常々私の子供達には、常に逃げ場を用意してあげたいと考えています。いったん逃げさせてから、立ち向かい闘うのか、そのほかの方法をとるべきなのかを一緒に考えてあげたいと思っています。親のスコープはわが子です。教師のスコープは自分の教える子供達であり、学校のスコープはその学校に通う子供達全体です。親と学校のスコープには、残念ながら隙間がありそうです。このあたりを子供達自身が何とかするという方向に向かえるよう、支援をしていきたいものです。子供達が被害者にも加害者にも傍観者にもならないために、また被害者になったとき、親と教師・学校の狭間に落ち込んで、追い詰められてしまうことのないよう、まともな大人、まともな親なら考えていきたいものです。
マスゴミ(特にTV)は毎日、面白おかしく苛められて死ぬ子供を取り上げ、その原因は学校だ、教育委員会文部科学省だ、いや親だとはやし立てることしかできない、少なくともこの件については無能で役立たずな存在です。役立たず程度ならまだいいのですが、考えなしにニュースを垂れ流すおかげで、社会の害悪になっているのが実情です。社会の中で一定の権力を持つマスコミには、このような社会的な事象において相応の責任を果たして欲しいものですが、残念ながら現状そのようにはなっていません。なっていないなら、サイレント・マジョリティ(自爆)が声をあげ、狭いスコープに責任を持つ側が動き出さないといけないのでしょうね。