「話し合えば分かり合える」のは一定の価値基準を共有できる場合だけ

「【中国を読む】分かり合えぬから面白い 福島香織」世界から‐中国・台湾ニュース:イザ!
この福島氏の記事に共感します。
名刺を受け取る受け取らないなどというのは些細なことですが、ごく普通に社会人として生活していれば、どこまで話し合っても互いを理解できそうにない人に頻繁に出会うものです。人はよくそれを「相性」などといいますが、同じ国に生まれ同じレベルの教育を受けてきた中にも、そんなことはしばしばあるわけです。
異なる土地に生まれ、異なる価値観を教育され、まったく異なる経験を積み重ねてきたもの同士が、ひざを突き合わせて長期間じっくり話し合えば分かり合えるなどというのは完全な夢物語です。もちろんそこに、一定の価値判断基準を共有できるという前提がつけば、これは話が別なわけです。その価値判断基準を中心として互いの考えを話し合えば、特定の分野については「分かり合う」こともできるのです。
福島氏が書いているように、中国もそうですし、朝鮮半島の人々もそう、もちろん友好関係を維持できている他のアジア各国や欧米諸国も同様に、分かり合える部分と分かり合えない部分と言うのは必ずあります。その分かり合える範囲というのは、どこまで価値判断基準を共有できているかという部分の差で大きく異なるのだと思うのです。
往々にして話し合えば〜と声高に主張している連中は折衝ごとが下手だったりしますね。理想論を振りかざす前に、自身が関係するすべての人間と「分かり合える」ことを目指してみてはどうかと思ったりする、というのは既に元記事の趣旨とは離れてしまうので余談です。